ヨモギ餅と小豆アンコと

 先週の朝、アルパカの耳が主催するオンラインでトーキングサークルに参加していました。とても珍しいことですが、私が話しているときにパソコンがフリーズして、しばらくそのサークルから離脱してしまいました。そのときの様子をヨモギ餅と小豆アンコを例に考えてみました。(A)を見てください。緑のヨモギ餅の前に小豆アンコがあります。このときヨモギ餅はアンコで見えない部分も存在していると思う人が多いでしょう。ところが、(B)を見ると事情が違ってきます。もし、地と同じ色をした白い物体が同じ場所に置かれると、ヨモギ餅は齧られて欠損したように見えるでしょう。

 この二つの絵を考えるとき、いろんな喩えを連想します。小豆アンコのようなはっきりとしたモノであれば、ヨモギ餅を隠しているだけで、ヨモギ餅は無傷です。ところが、「地」と同じモノ、それが何かは分かりませんが、これは、ヨモギ餅を食べたように見えます。

 意識に上がって来るモノ、たとえば、アンコは、それが餅と重なっても餅は損なわれないのに、「地」と同じモノは、餅にダメージを与えるように見えてしまいます。

 これは、私たちにとって、「図」と「地」が互いに異なった存在であることを意味していないでしょうか。

 最初のエピソードに戻りましょう。私がヨモギ餅だとして、何かトラブルに見舞われて(小豆アンコをつけられて)、オンラインから姿を消しても、依然として私の存在は確保されていると残された人々は想像しているでしょう。ところが、私の存在を保証しているもの、たとえば、酸素が突然私の周囲から失われてしまうと、私自身の存在が危うくなります。そして酸素があることは普段は当たり前のものとして意識にはあまり上りません。

 大切なものは失って初めて気がつくということでしょうか。

ESSAY BY fumi

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浅沼志帆

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