正義、良心、公正世界仮説 

Essay by fumi

ある対話会に出席し、正義について考える機会がありました。

 私個人の記憶に限って言えば、「正義」という言葉を最初に聞いたのは、「鉄人28号」という初期のアニメのテレビ放送でのテーマソング、「あるときは 正義の味方 あるときは 悪魔のてさき」でした。それからいくつかの「正義」という単語を聞いたのですが、ほとんど気に留めることはありませんでした。次に記憶したのは、ハーバード白熱講義で著名なサンデル先生の「これからの正義の話をしよう」でした。

 私は「正義」という言葉を長く使って来なかったのです。私にとって「正義」とは空疎な言葉でした。その代わりに必要だったのは「良心」です。「良心に恥じないこと」「良心に従うこと」、同志社を創始した新島襄の「良心碑」を十代の終わりに知りました。

「公正世界仮説」は比較的新しい言葉です。この文章で使っている言葉で説明すれば、「良心に従って正しい行いを続けていれば、正義が実現するに違いない」という人々が抱く仮説です。たとえば、「お天道様は見てくれている」といった台詞は「公正世界仮説」が支えている言葉です。逆にこの仮説は「因果応報」や「天罰が下った」など、悪い結果に対してその責任を当事者に当てはめたりします。

「良心」の起源を古代中国の孟子に求める議論もあるようですが、ここでは、”conscience”の訳語として考えてみます。この語の直訳は「知識の共有」です。言葉にすることを共有すると考えて見ても良いでしょう。私たちは言葉を持ち、言葉を他者と共有して生きているのですから、この訳語に従えば「良心」を実践しながら生きていますし、「良心」から逃れることもできないでしょう。

どうすれば、「良心」から出発して空疎な「正義」にならずに本当の「正義」を実現できるのでしょうか。アダム・スミス以来の「神の見えざる手」がうまく機能しないことが分かったこの世界では、再び、「これからの正義の話」を再開しなければならないのでしょう。私たちにできることは、話の場、対話の場を準備することでしょう。

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