散歩
essay by fumi
ラファエロの「アテナイの学堂」は、二十数名の著名な哲学者が一堂に会している場面が描かれ大作です。問答を続けるソクラテス、思考に沈潜するヘラクレイトス、地面に図形を描くアルキメデス、寝そべるディオゲネス、書物を読み耽るピタゴラスなどを配して、絵画の真ん中に描かれているのは、プラトンとアリストテレスです。
プラトンについてホワイトヘッドは「すべてのヨーロッパ哲学はプラトンへの一連の脚注にすぎない」と述べています。もう一方、プラトンが開設したアカデメイアでともに歩み語らっている人物が、万学の祖、アリストテレスでした。時空を超えてルネサンス世界の知恵と知識を一枚の構図に収めたこの絵画は、まさしく文芸復古とも訳されるルネサンスを象徴する作品でした。この中心にいるのが歩きながら対話を続ける「逍遥学派」の二人であることは当然と言っても良いでしょう。
対話によって人の心が生まれ、対話をしながら生きてゆくことは、「アルパカの耳」の基盤ですから、ここで縷々申し上げることもありません。もうひとつの「逍遥」について記しておきたいと思います。
「逍遥」は、いくつかの辞典をまとめると、「ぶらぶら歩きまわること」といった意味です。旧制第三高等学校の寮歌、歌い始めが「紅もゆる」は、「逍遥の歌」というタイトルです。「琵琶湖周航の歌」でも「われは湖の子さすらいの」で始まりますから「ぶらぶらすること」が彼らは大好きでした。つまり、「逍遥」とは普通に言えば「散歩」です。
今、健康を考えるときに「ウォーキング」が話題にのぼることがあります。「ウォーキング」については、その距離、時間、姿勢、ペースや歩幅がいろいろに提案されることも多く、エビデンスに基づいた説明を受けると、なるほど健康に大いに寄与するのだろうと思います。
「散歩」は確かに「ウォーキング」の一種だとも言えそうですが、適切な「ウォーキング」の条件などからは自由になってただ「ぶらぶらすること」に主眼が置かれます。この「ぶらぶらすること」の類語として、「放浪」「漂白」「彷徨」などを連想します。「足の向くまま気の向くまま」と書くと「風来坊」という人物がイメージされます。こんな言葉は「あてもない」「無目的」な有様を描写するもので、目標設定をして生きる現代人とは相性が悪いようです。
でも、だからこその「散歩」なのでしょう。他者と、また自分自身と対話することは、「散歩」を通して心身とシンクロしています。それは世界を築いてきた人々の「逍遥」に遡ります。意識して健康を増進する「図」を補うもの、茫漠と広がりながら確かに健康を支える「余白」だと言っても良いでしょう。

投稿者プロフィール
最新の投稿
fumiのポリフォニックエッセイ2026年10月2日散歩
fumiのポリフォニックエッセイ2026年8月20日対等に対話するということ
fumiのポリフォニックエッセイ2026年8月3日収斂と解放
fumiのポリフォニックエッセイ2026年6月15日声の流れ
