部分のなかに全体がある

essay by fumi

 テーブルをはさんで向かい合って友人や恋人と夕飯をともにするとき、相手のおなかから下はテーブルに遮られて見えないことがあるでしょう。だからと言って、見えないのだから身体の下半分がないなどとは思う人はあまりいないでしょう。私たちはやはり足先まで揃っていると思っています。私たちは見えない部分をイメージしている、言い換えると補完しているわけです。当たり前のように思うかも知れませんが、鳥類はどうも補完機能が十分ではないという報告があります。

 私たちは視覚的補完ばかりではなく、もっと抽象的な他人の人格なども「補完」しています。ある人と初対面を経てしばらくすると、この人はこんな人だろうと勝手にその人となりについて想像を巡らしはじめます。一例をあげれば、血液型占いなどはあらかじめある人の人格を先取りしていると言えるでしょう。おしゃべりの中で血液型が話題になったとき、「A君はB型なんだね」という一言は、血液型を通してA君の全体をイメージしていることが少なくないでしょう。

 ちょっと古い映画ですが、「メン・イン・ブラック」は大ヒットしました。SFとコメディを掛け合わせた舞台で、トミー・リー・ジョーンズとウィル・スミスが好演します。この映画の一作目の最後のシーンでは、カメラの視点がマンハッタンのビルの街並みから急速に遠ざかり、地球を出て、太陽系を去り、銀河系を越えて、さらに遥か遠くから宇宙を眺めます。すると宇宙人が手にするビー玉の中に宇宙が納まってしまいます。

 宇宙という全体は、宇宙人が集めて袋の中にいれた一個のビー玉に過ぎない、つまり全体は部分であるというオチでした。マンデンブロは全体が部分の中で繰り返されることを数学的に示し、フラクタルと名づけました。その美しい模様は人々を魅了します。

 血液型占いという全体の鋳型にある人を押し込めるのではなく、部分から全体を人に当てはめられないでしょうか。私たちが何気なく声にする言葉、あるいは熟考の末に出て来る声、どんな声もその人の一部です。しかし、その声一つひとつをその人全体を代表するものとして尊重すること、言葉を伴った声の存在がその人そのものであると考えてみてはどうでしょう。どんな声もその人から出たものであれば、その人の部分です。確かに声がその人全体をうまく示さないこともあるでしょう。それどころか、私たちのおしゃべりは愚にもつかない暇つぶしに費やされたり、人からの借り物の繰り返しだったり、単純な意味記憶の再生だったりもします。

 しかし、たくさんの声の中にその人ならではの声、その人そのものからの声が生まれることがあるでしょう。それらも含めてまず聴いてみないことには、それがその人ならではの「ユニークな声」なのかどうかが分かりません。たくさんの声の中から「ユニークな声」を聴くとき、その人そのものが、つまりその人の全体が現れると言っても良いかも知れません。少なくともその人全体を予見するものでしょう。

 ユニークとはすなわち唯一なのですから、その人は私とは独立して存在しています。私もその人から独立して存在しています。それを「対等な関係」と呼ぶことにしたいと思います。 

空也像 (六波羅蜜寺蔵)
使用許可をいただいて掲載

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浅沼志帆

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