対等に対話するということ
essay by fumi
人と話をするとき、いつも頭を悩ませるのが「相手を何と呼ぶか」です。英語は“you”しかないので、気楽ですね。(横道に逸れますが、印欧語で二人称が“you”だけなのは、英語くらいのもんです。)対照的に日本語は、は初対面の人に対しては「あなた」が最も無難です。しかし、日常の会話で多用されるのは、「きみ」「あんた」に始まり、「おまえ」「おめえ」「てめえ」「お主」「貴公」「貴様」など、場面により相手により様々です。また、「お母さん」「お兄ちゃん」という関係性を表す言葉を使う場合も少なくないでしょう。そもそも日本語に「人称」があるのかという議論もあるでしょう。たくさんの「二人称」のなかで何を選ぶのか。家族や親戚以外では、〇〇さん、〇〇君と呼び掛けて、あとはいっさい人称にあたる言葉を使わずに話を進めることは、日本語ではできそうな気がします。つまり、「二人称」は使わないですみます。
さて、なんとかその場にふさわしい「二人称」を使いこなしたとしても、どうしても気になるのは敬称です。英語で“Mr.”や“Ms.”に相当する「様(さま)」や「さん」の使い方がむずかしい。英語では、改まった場所で立場が上の人に使うことが多いでしょうが、友人や仲間に対してはファーストネームで呼び合うでしょう。ところが、日本語では、会話の際に「様」をつけることはあまりないにしても、「さん」「くん」そして「ちゃん」を普通につけて呼びます。大谷翔平選手が頭角を現し始めたころ、ホームランを打った時に実況中継の解説者が、“It is gone, home run, Otani-san!”と言ったりしてました。しかし、ベッツ選手に対して、彼が豪快なホームランを打ったとしても“Mr. Betts!”と呼ぶことはないでしょう。
小学校でクラスメートを「さんづけ」で呼ぶことが推奨されていると耳にしたことがあります。いろんな呼び方をするといじめにつながるからだそうです。ことの是非はともかく、日本語では「さんづけ」は根強い呼称になっていることが分かります。
このような日本語の特徴をふまえて、主題の対等な対話を考えてみましょう。「さん」は「さま」のなまったものですから、敬称の一種だと考えられます。「さん」をつける限り、この上下のヒエラルキーから逃れられないのではないでしょうか。
対話者の間でどのような呼称で対話をしているのか。それを見ていれば表面的な対話者の上下関係は確かに分かるでしょう。しかし、対等であることの本質は言葉遣いにあるわけではないように思います。どのような関係が対等と言えるのか。対等な対話者とは、対話の相手をユニークなそして別個の存在であると認めることだと思います。
対等な関係の間ではサン=テグジュペリ作「星の王子様」が地球に来てから砂漠に不時着した「僕」と交わす対話に見られるのかも知れません。その対話ではユニークな言葉が生まれます。
「砂漠が美しいのは」王子さまが言った。「どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね……」このとき不意に、僕はなぜ砂漠が不思議な光を放つのかわかって、息をのんだ。(河野万里子訳)
シェル・シルヴァスタインが面白い絵本を残しています。原作の絵そのものではありませんが、似たものを描いてみました。図Aは「僕を探しに」から図Bは「ビッグ・オーとの出会い」の一こまです。図Aは、どちらも「ピース(部分)」なので、互いに互いを必要としています。ところが、図Bは大小はあってもそれぞれに「オー」という全体であり、「ピース」ではありません。別個に自立しています。
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